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| 落日燃ゆ | |
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一言:
一人の人間の生き様を知ることが、
読者の歴史観にもたらす動揺の大きさ
ふれてはいけない、
そう自分に言い聞かせつつ読了した。
歴史上の様々な事象に対する認識、僕の中のそれはおそろしく軽い。
そして、一人の人間の人生という具体は、僕がこれまで空気のように取り入れてきたどのような観念よりも重い。
だが、だからといって一気に天秤を逆側に傾けてはならない。
客観性を旨として歴史を記述する文言を、ある人生という具体に対する許されざる中傷と感じ、
その感情だけで自らの針を振れさせることはできない。
一人の人間と彼へと連綿と流れ込む者たちへの崇拝が引き起こした帰結を知る者に、
わきあがる感情に身を任せるという贅沢は許されない。
そのような状況で、「戦前」を本書の中に探ろうとするなら、
必然的に距離を取りつつ進めるしかない。
だがどうやって。
例えばそれは、大日本帝国は「銃」が支配した、
それが戦後、いつの間にか「自由」に化けた、
といった言葉の力の方に、身を委ねることかもしれない。
そしてそこに、しかし「自由」の後ろにもやはり「銃」があった、
「民衆を導く自由の女神」、彼女の手にもまた「銃」が握られていたように、
といったフレーズを続けることもできるかもしれない。
だがそれもまた何か言葉の紡ぐ「心地よさ」に身を委ねる点で、
一見抗っているようでも、実際は感情に訴える同じ構造に絡めとられているに過ぎない。
プロパガンダに踊らされるのと大差はない。
では、徹底的にシニカルな視線を送ればいいのではないか。
戦前は表現の自由がなくて新聞記者も大変だったろうって?
馬鹿を言っちゃあいけない。
戦前はねえ、政党と政府だけじゃあない、軍部に枢密院に宮中、元老に後は重臣とまあ取材する所に困りはしなかった。
政党間だとか政党内の派閥争いなんてみみっちいものじゃ政治は決まらないんだ。
敵はもっと外にいた。
いくらでもほんまもんのドラマが書けていい時代だった。
なんてうそぶいててみてはどうか。
だが、このようなシニカルさも、結局は常識的イメージをスタイルを変えて提出しただけで、
一人の人生の重さに抗しきれるだけの力があるかは疑問だ。
じゃあ、とばかりに今度は文章中の一言一句に分け入ってみるのも手かもしれない。
ストーリー全体に虜にされるのなら、
全体が目に入らないほど近視眼的に迫るのも悪くない。
例えば「人臣位を極める」という言葉に、
その頃は「神」がいたことを思ってもいいし、
大使のほうが親任官だから奏任官の外務次官よりも上だ、
といったくだりに、天皇を中心とする秩序を思ってもいい。
だが、そうして丹念に言葉を追っていっても、
それはすぐに戦前を語る定型の中へと零れ落ちてしまうこともまた事実だ。
と、ようやくここまで来て一つの考えに至る、
凡庸な定型を避けようとすること自体が誤りかもしれないと。
そのようにして再生産から逃れようとした欲望が、
破滅的な侵略と革命の幻想を抱かせたのではなかったか。
凡庸結構、中国・ソ連を注視し続けたものの、
アメリカの時代を感じ取れなかったがゆえの広田の敗北だと言ってしまえばよい。
こうして、広田を歴史の中に、この本を読む前よりは多少増えた知識とともに埋め込めば、それでいいではないか。
いいではないか、多少他人を不利な状況に追い込むことになってでも自分の弁護をすれば。
しかし、彼には譲れぬ一線があった。
そのような彼の人生を前に、いいではないかで筆をおくことはできない。
「マンザイ」、彼の最後の言葉だ。
もちろんこの言葉を感動的にさせるのはその影で無数に叫ばれた「万歳」の方である。
それは「万歳」を笑い飛ばしたように見えて、
やはりどこかで「万歳」の力を認めてしまっている。
だがそれでもなお、「マンザイ」のような言葉で広田の人生を笑い飛ばしたくてここまで書いてきた、
たとえそれが広田の人生の重さを結局は認めることになるとしても。
そして、広田になれない僕はそれにさえ失敗した。
ふれてはいけない、この言葉は読み終えた後でなく読む前につぶやかれるべき言葉だった。
帯とか
東京裁判で絞首刑を宣告された7人のA級戦犯のうち、ただ一人の文官であった元総理、外相広田弘毅。
戦争防止に努めながら、その努力に水をさし続けた軍人たちと共に処刑されるという運命に直面させられた広田。
そしてそれを従容として受け入れ一切の弁解をしなかった広田の生涯を、激動の昭和史と重ねながら抑制した筆致で克明にたどる。
毎日出版文化賞・吉川英治文学賞受賞。
開戦に反対の立場を貫きながら、東京裁判で絞首刑を宣告された唯一の文官・広田弘毅。
「自ら計らわぬ」を信条に一切の自己弁護を放棄し、苛酷な運命に従ったその生涯を描いて、戦争責任の意味を深く問う傑作。
| 官僚たちの夏 | |
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一言:
誰の指図も受けたくない男が、
官僚になるという時代があった。
突き詰めれば底が抜けるかもしれない「天下国家」のフィクション性を知ってか知らずか、
雑に生きた男がいた。
ゼミでのディスカッションで、
これほど分かりやすく解釈がぶれた本も久しぶりだ。
主人公である異色の官僚、風越を突き動かしていたものは何か。
己の欲望か、人間への興味か、天下国家のためか。
自らの意志か、時代の構造か。
彼はあえて雑に生きたのか、それとも根っからの雑な人間だったのか。
他の官僚達の「天下国家」は何だったのか。
たとえば自らの「受験」の経験を補助線にしてみよう。
その時、自らの努力が報われると本気で信じていたのか?
それをスライドさせれば、
官僚たちは、自らの行為が天下国家のためになると本気で信じていられたのか?
様々な人間のぶつかり合うドラマ。
まだ、こういうのでも熱くなれる自分を再確認。
ただ、道化役の西丸の造形が若干甘い気もした。
では書評をどうぞ。
途方にくれる技術では他の追随を許さない自信があるが、
最近の「途方」の種は昔話である。
たとえば、明治における写真撮影にはシャッターなどあるはずもなく不動の姿勢を5秒強いられた、
ゆえに笑顔の写真が皆無だ、
といった昔話を聞かされるたびに、
自分が経験していない時代の生活に思いを馳せることの難しさに途方にくれる。
よほど注意しないと、
意味が全く異なっている言葉でも、今の時代の感覚で聞いてしまい、大いに誤ることは多々ある。
「アクセル全開」といった言葉一つとっても、
その意味するところは、時代によって大きく変わってきたであろうことは想像に難くない。
戦後の焼け野原をかっ飛ばすのと、現代の渋滞の中を進むのとでは勝手が違う。
また街が変わるように、車自身も変わる。
そして車の変化が街に変化を及ぼし、それがまた、という双方向の因果は回り、
その果てに「アクセル全開」という言葉の意味の変遷がある。
そしてここまで横道でアクセス全開だった運転のハンドルを強引に切ると、
城山三郎は他人の駒になることを徹底的に嫌った人だ。
一言で言えばそうなる。
これを、自分の思い通りに生きた、と言ってしまうと若干語弊があるだろう。
<どうにでもなれ。おまえらで、決めてくれ>を説明できないからだ。
部下達に自分の運命を投げ出しその成り行きを眺めることには何らの躊躇もない。
ただ、誰かに利用されてしまうことがいやなのだ。
音の響きの近さで行けば、
独楽のように回り続ける自分が、一体どの地点にたどりつくのか、
それだけを興味深く見守っている。
だが、その独楽を駒として使おうとする者がいれば、
ぶんぶんうなりだしてしまうのである。
特許庁の例でも分かるとおり、
部下にはとことん開かれているが、上司に対しては我を通す人間、といってもよいだろう。
だが不思議だ。
「他人の駒になりたくない」の意味するところも、現代とはだいぶ異なっているらしい。
なぜそのような人間が官僚になってしまうのか。
焦点はそこにある。
ちょっと迂回をすれば、つい先日、とある60年代を描いた芝居を観た。
その舞台には60年代から芝居をやっている役者もいれば、
僕とほとんど年の変わらぬ者もいた。
そして彼らの身体は驚くほど違う。
端的に言えば、立ち方が違う。
両足で支えるべき重さが違う。
我々は軽い。
彼らは重い、圧倒的に重い。
そのことを踏まえて振り返ればすぐに気付く、
風越もまた大きな荷物を背負っていたことを。
「大きな杉が、一本また一本と伐られて、おれの学資になった。」
これは重い。
それこそ生一本にがむしゃらに生きるしかない。
名をあげるしかない。
「官僚」になるしかない。
そして、「名をあげる」が「官僚」につながることにも、戦前と現代との断層が感じられる。
ここまでで、「他人の駒になりたくない」男が「官僚」になってしまうことはわかった。
だが最後の問いになるが、官僚のトップになることはイコール「他人の駒にならないこと」になるのだろうか。
次官になれば、彼の上司は誰もいないことになるのだろうか。
ここでも時代がものを言う。
戦前のように天皇に仕えているわけでもない。
かといって、国民に仕えているというような意識もいまだない。
そのような宙ぶらりんの状態にあって、
少なくとも風越の頭の中では、
次官になることは、誰の駒にもならないことだった。
そのフィクションを信じたまま逝けないほどに、風越という独楽は激しく回ってしまった。
ぶんぶんとうなり声を上げて。
それは一種の「悲劇」と呼んでも差し支えないかもしれない。
だがその時現代の読者は、
風越個人の突き進む性格云々よりも、そのような性格の人間がなぜ官僚になったのか、
その社会の構造にこそ目を見張るべきではないか。
構造の圧倒的なインパクトでの提示、それが「悲劇」の真の効用であるならば。
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一言:
自由主義が理念であることをやめ政策論に降りたとき
もはや帝国でしかありえないアメリカを前に
自由を建設するために、反自由主義的な、つまりは帝国主義的なパワーの発揮が不可欠である、
そのような著者の考えの下、
実際の国家建設の現場、ボスニア、コソボ、アフガニスタンの三つの例がルポ風に語られる。
本書はイラク戦争前に直前に書かれたものだが、
その後の動きも訳者がフォローしており好感が持てる。
さて、アメリカという国でリベラルはどうあれるのか?
まず、自分の生活圏に関わってこない限り、
その問題に積極的にコミットしないという形でのリベラルがありえる。
だが、自分の周りのリベラルな空間も外ととの関わり、
つまりはグローバルなネットワークの中でのみ存在することが、
9・11テロによって再確認された。
もしくはそのネットワークが「暴力」の次元においても認識された。
本書中で何度も言及されるのが、
それまで重要と考えられていなかった地域が、
麻薬、人身売買、そしてテロというもので、
先進国の安全保障に大きく関わることになったという認識がある。
では、それを前提に、リベラリストが「他者」をどう扱えるのか?
そのさい、「他者の自由」を尊重するという立場と、
「自らの自由」を脅かす存在を徹底的に叩くという立場があるだろうが、
それが奇妙にも重なり合ってしまう地点に我々がいることを、
本書及び訳者による解説は告げる。
つまり、ある主権国家に対する態度としては、
両者は、不干渉主義と、介入主義というふうに大きく立場を異にするが、
主権が確立されていない国家(語義矛盾だ)に対して、
つまり紛争によって国家が破綻している場所に対しては、
両者は同様の立場を取らざるを得ないのだ。
つまり、一方では、そこで「自由」が確立されていないことから、
人道的な介入主義が生まれるし、
そこに秩序が形成されていないことが自分の周りの「自由な空間」を脅かす分子の温床になっているという立場からの介入主義も生まれうる。
この「自由主義者」のねじれ、
特に「他者の自由」を尊重する立場だったはずの者が、
「自らの自由」の擁護を考えるだけの者と同じ政策を指示せざるを得ない現代を背負った存在として著者はいる。
また、彼の立場は、
ベトナム戦争後、反射的に「反戦平和」を唱えるしかなくなり、
政策論に知的な貢献ができなくなった「自由主義者」へのアンチにもなっている。
そしてこの自由主義者のジレンマが、
アメリカのジレンマ、
つまり、現代における唯一の帝国の立場にありながら、
それを全面的にまた恒久的に行える(ローマのような)「重い帝国」ではないというジレンマ、
と重なり合い、
本書の中に流れ込んでいる。
アメリカはその国益への考慮と国力への考慮と、
政策決定・評価のスパンが短期的にならざるを得ない「民主主義国家」としての立場とにより、
できるだけ早く介入した場所に秩序を形成し、
できるだけ早く撤退したい「軽い帝国」として存在せざるをないのである。
目次など
帝国であるか否かではなく、「帝国の責務をどう果たすか」を問う。
第1章 序論
第2章 橋渡しをする人
第3章 帝国主義者としての人道主義者
第4章 軽めの国家建設
第5章 結論―帝国とそのネメシス
イグナティエフ,マイケル[イグナティエフ,マイケル][Ignatieff,Michael]
1947年生まれ。亡命ロシア貴族の末裔としてカナダのトロントに生まれる。トロント大学卒業。ケンブリッジ大学キングズ・カレッジのシニア・リサーチ・フェローになると同時に英国に移住。テレビのプレゼンター、雑誌への寄稿、著作活動を通じて、現代英国を代表するジャーナリストとして活躍する一方で、アカデミックな歴史家としての一面ももつ。現在はハーバード大学ケネディ行政大学院で教授職にあり人権論を講じている
中山俊宏[ナカヤマトシヒロ]
1967年東京都生まれ。青山学院大学大学院国際政治経済学研究科国際政治学専攻博士課程修了。国際政治学博士(青山学院大学)。ワシントン・ポスト紙極東総局記者、日本政府国連代表部専門調査員を経て、現在、(財)日本国際問題研究所アメリカ研究センター研究員。専攻はアメリカ政治外交、アメリカ政治思想
| 狼なんかこわくない | |
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一言:
つまりは筆者は一種の告白を行ってしまったらしい
人を動かす本というものがある。
どんな悪質なプロパガンダでも、人は動いてしまう時がある。
でも、この本は人を動かざるを得ない状況に置く。
この本は答えをくれない。
でも皆、本当は知っている。
答えは世界を救わない。
自分自身で問うこと、
問うことだけが、
一瞬、
世界の崩壊を忘れさせる。
厄介だ。
「あることないこと」そして「ないことないこと」という冒頭の言葉からして厄介だ。
庄司薫はこの二つの魔法の言葉で、
まんまと、書かれたこと(それはあることなのかないことなのか)に「熱心な読者」の目を釘付けにし、
書かれなかったことから彼らの目を遠ざけた。
そして次に厄介なのは構成である。
ここで「熱心でない読者」もころりと騙される。
試みに彼の人生を再構成してみよう。
するとその作業がまさに再構成、
すんなり読んだ時の本書の印象とは似ても似つかない何かを見出す作業になる。
書かれている通り、
彼における「他者への愛」の難しさへの気付きは、小学校高学年にはやってくる。
また(こちらは書かれていないことだが)、
自分の可能性の大きさへの自覚はもっと早い段階で現れていたことだろう。
この、他者への愛の難しさと、自分のあまりに大きな可能性という二つの問題系が、
「力の獲得」という言葉で統合される。
つまり、他者への愛を十全に行うには、
「最高の贅沢品といってもいいと思われるほどの『力』の裏付けを要求する」し、
可能性の現実化とはつまり力の獲得である。
そして力の獲得という問題系において初めて、
他者との比較競争関係に入ることで、
「自らの可能性を確かめようとすればどうしても誰かに対する加害者にならざるを得ない」という問題が生じてくるのである。
だが、「力の獲得」ないしそれと不可分の「他者との競争」を、
彼が「他者への愛」や「自らの可能性の確認」のためにという強い目的意識でやっていたと考えるなら、
それは大間違いである。
良く考えて欲しい、
子供は生まれた瞬間から、何の目的意識も持たずに、自然と力を獲得していってしまうし、
自然と他者との比較競争関係に入ってしまう。
著者が「美人」の例を繰り返すのも分かるものには分かるサインである。
その状態を反省的に眺めて初めて、
無意識の内に自らの可能性を試していたのであり、
またそこで得た力が個人的でない価値を持つとしたら、
他者への愛を可能にするという点だけであろうという構図が理解されるのである。
そして今まで述べてきたような青春の構造に
「精通することによって、せめてはそんな青春を生き抜かねばならない自分を辛うじて支える一筋の誠実さを残そうとする」というふうに、
文章中ではしたり顔で最初の方に登場する「誠実」は、
実は最後にやってくるおまけのようなものなのだ。
乱暴に書くなら、
「力の獲得(無意識に自らの可能性を試している)」
→「その力抜きには他者への愛が不可能であることへの気づき」
→「しかし、力の獲得は他者との競争でしか得られない以上、他者への愛とバッティングする」
→「せめてそのことを十分に知っているという誠実さ」
という順序でものごとはやってくる。
簡単に言えば、力の獲得(競争)が初めにあり、意義付けはあとからやってくる。
そのことを象徴するのが二年生時の彼だ。
まず第一に中央公論新人賞の受賞も
「大きな目的を見失ったままただ競争に参加し、結果的に勝った」というものだし、
(これは書かれていないが)入学時には法学部進学を考えていなかったであろう著者が(彼は文学部組だ)、
それを最有力の戦略として考えた時、
厳しい点数競争の中でそれを可能にするだけの点数を彼が自然に手に入れていたことは贅言を要しない。
そしてそのように「自然に競争してしまっていること」を、
つまりは力の獲得を肯定するかのような作品を書いてきた彼が、
真に「他者への愛」というテーマを描こうとした時、
その主人公は、本来なら不自然である「自然に競争をやめてしまう」という状況にある必要があった。
確かに、
赤頭巾ちゃん気をつけての最後の章の、自分より弱きものへの眼差し、
だけでも作品は成立しただろう。
しかし、「東大入試中止」という事件を奇貨として初めて、
他者への愛が十全に描けた。
そんなどこにも書いてないことないことを、
ちょっと著者に尋ねてみたかったりする。
目次とか帯とか
豊かな社会の情報洪水のなかで、若者はいつまでも大人になれない。
成熟を困難にする現代の青春のまっただなかで、純粋さと誠実さを求め、あくまでも「他者肯定」を夢見て闘おうとする若者のための、永遠の指南の書。
1 三つの序文(ぼくが「序説」の好きなわけ;十年間何をしていたか;一つの戦闘報告として)
2 若さという名の狼について(春休み;蝶をちぎった男の話;若者の「やさしさ」に気をつけろ ほか)
3 十年ののち(再び「春休み」に;ゲリラの兵士めざして;赤頭巾ちゃん気をつけて ほか)
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一言:
1963年のスマートボール
今回も1500字くらいの書評で一言を謎解きするスタイル(最近多いけど)
人生でギャンブルにのめりこんだ経験は一度しかないのだが、
その一度というのが齢にして七歳、
1993年に駄菓子屋に通いつめて遊んだスマートボールである。
横置きで、打ち返すことのできないピンボール、
といえばご理解いただけるだろうか。
「十円玉を握り締めスマートボールに興ず」
という忘却の淵にあった個人的体験を、
奇しくもその三十年前に文筆業を開始した在野の学者、
萩原延壽の一連の著作がすくいあげててくれた。
彼の文章に満ちる「スマートボール的愉悦」のおかげである。
一種のテクニックと言ってしまえばそれまでだが、
彼の文章は打ち出したボールが向かう先としての二つの枠、「保守」と「革新」や、「権力」と「理念」といった緊張感に満ちた二項対立を設定するところから始まる。
だが御想像のとおり著者の興味は歴史上の人物や同時代人が最終的にどこに転がったか、
という結果にはない。
スマートボールの醍醐味はボールが転がっていく過程、
なかんずく、打ち込まれた釘に当たって彼らがどちら側に跳ねるのか、
その瞬間にこそある。
転がることをやめたボールに対する著者の目は厳しい、
というよりも彼らは個人名を挙げて描かれることさえない。
そして著者は、
摩擦による運動エネルギーの消耗を逃れ永遠に盤上で動き続けること、
つまりどちらかの枠におさまってしまわないという不可能性への挑戦をさえ、
知識人の倫理として求めるのである。
そして、枠におさまることの拒絶という点ではニヒリズムに通じかねないこの倫理を、
その運動性によって虚無主義から峻別する(p53)。
ここまでが「スマートボール」入門編である。
だが、より徹底した攻略のためには、
萩原台の独自の癖にも目を配らねばなるまい。
「夜警国家」を
「人々が寝静まったころ、その安らかな眠りを守り、明日の活動を容易にするために、夜更けの街を見廻る夜警」(p27)
と記述できるレトリックを持ちながら、
著者の文章はおおむね平易で禁欲的である。
もちろん、
陸奥宗光や馬場辰猪の人生を「ドラマ」にし「悲劇」にしているのは著者の描き方、釘と枠の設定の仕方ではないか、
という懐疑の念を失うことは、
「知識人」である読者には許されていない。
また、「政治思想家」を一つの否定すべき精神状態と定義した直後に、
「『精神思想家』の数は、それまで決して少なくはなかった」(p187)
と実体化して描く茶目っ気も、駄菓子屋や的屋のおじさんとしては許容範囲だろう。
だが、精神の永遠の革新の運動を説き、
その運動を止めるものとして「感動」を描く一方で、
著者自身「感動」の力を強く信じている節がある。
その証拠としては、
馬場辰猪の死に際して中江兆民が起草した追悼文に寄せる著者の
「ここに長文の引用をあえてしたのは、この文章が要約や省略を不可能にするほどの感動へわたしたちを誘うからである。」(p115)
という一節で十分であろう。
打ち出されたボールが描く軌跡ではなく、
そのボール自身がガラスを突き破り読者に届く可能性を著者は最終的には信じている。
そして遺された名文の数々を前にする時、
現代 ―緊張感を持って屹立する二項対立は消え、釘は引き抜かれ、ボールを打ち出すばねは伸びきってしまった時代―
に生きる我々は、
彼の生きた時代に嫉妬せざるをえない・・・。
しかし本当にそれでいいのだろうか。
彼の設定する二項対立は全て価値的に等価なものである中で、
「池田時代の遺産」という短文で導入された「プロ」と「アマ」という言葉が気に掛かる。
これはつまり、
二項対立を相対化してスマートボールを外からプレイしている者と、
何もわからずにただ転がっているボールとの差異である。
そしてこれは「新人類」と「オタク」を経て「あえて」と「ベタ」という言葉にまでつながる現代の問題系に直結する。
価値の相対化が進み、
全体が見えているかという「差異」しかない「現代」が、
萩原の中にも刻印されているのだ。
ならば、我々がなすべきはないものねだりをすることでないことだけは明白だ。
そして小林秀雄を評した萩原自身の言葉を借りるなら、
現代人萩原の著作を新たな「感動」を持ちつつ
「丹念に読むことの方が、それを要約しようと苦労するよりも、はるかに有益であるし、かつ楽しい」。
無論「まずこの道場を経て、氏のいう『創造的』批評の旅に出立すべきである」ことは言うまでもないとしてもである。
目次など
「革新とは何か」「福沢・中江・馬場」からオーウェル、丸山真男、“リトリートの思想”まで。
自由の精神を生きた一人の知識人=萩原延寿の軌跡をとどめる35篇。
人間と国
革新とは何か
日本知識人とマルクス主義
陸奥宗光小論
馬場辰猪の墓
福沢・中江・馬場
福沢諭吉
不朽の文字
岡義武『近代日本の政治家』を読む
ゲイツケルの死〔ほか〕
「好きな文章に出会うと、すぐそれを写したくなる癖が、わたしにはあるらしい。写していると、やがて自他の区別がつかなくなり、自分でも惚れ惚れするような名文を書いているという錯覚に陥ることがあるが、筆写にはそういうひそかな愉しみもある」(オーウェル「政治と英語」)
著者が文筆家としてデビューしたのは1963年春のことであった。それまでの6年間をアメリカとイギリスで暮らした著者は、戦後日本の転機となった「60年安保」を外側から体験していた。同時代をみつめる特有の視点、自由な精神に裏打ちされた著者独自の文章は、ここから生まれたといってよい。「政治は現実を語り、思想は理想を説き、かくして、その間に永遠の対立と緊張が存在する――、そういういわば散文的な現在の方が、政治社会の常態なのである。そして、政治と思想について、保守と革新について、現在わたしたちが考えをめぐらす場合に、その基礎におくべきものは、政治社会の常態であって、例外的な状況ではないように思うのである」(革新とは何か)
萩原延壽(1926-2001)の遺した文章から35篇を選んで一書にまとめた。「日本知識人とマルクス主義」「首相池田勇人論」など、主に『中央公論』誌上で展開した政治評論、先行する「歩行者」たる馬場辰猪や陸奥宗光・諭吉・兆民について、小林秀雄やアーネスト・サトウ、ミュージカルを描いた数々のエッセイや書評、〈リトリートの思想〉について、そして丸山眞男、藤田省三への思い。自由の精神を生きたひとりの知識人の軌跡をとどめる。
萩原延壽(はぎはら・のぶとし)
1926年東京に生まれる。東京大学法学部政治学科卒業。同大学院を経て、米国ペンシルベニア大学、英国オックスフォード大学に留学。帰国後、著述活動に専念。著書『馬場辰猪』(中央公論社、1967、第3回吉野作造賞)『書書周游』(文藝春秋、1973)『東郷茂徳――伝記と解説』(原書房、1985、吉田賞)『陸奥宗光』上下(朝日新聞社、1997)『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』全14巻(朝日新聞社、1980-2001 第28回大佛次郎賞)。
新聞書評
自由の精神 萩原延壽著
政治見据えた歴史家
萩原延壽という、歴史に深く沈潜した作家がいた。心血を注いだ『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』(朝日新聞社)全14巻が完結した直後、ロウソクが燃え尽きるかのようにこの世を去った。残された人々は、彼の原点とも言うべき初期の論文を中心に一冊に編んだ。
萩原延壽は「思想と政治のジレンマに生きた男」(粕谷一希氏)だった。「思想のラディカリズム」と「政治のリアリズム」の相克を見詰めた歴史家だった。次の断言はその結晶だ。
〈「権力」と「理念」という政治における2つの主要な契機の双方にたいして、つねに過不足のない認識と理解をしめすものだけが、政治の世界において真にリアリストの名に値する〉
それを体現したのが陸奥宗光だった。「陸奥宗光小論」は何度読んでも唸(うな)ってしまう。陸奥とは「藩閥」勢力という実在する権力と、「自由民権」という普遍的な「理念」との間に引き裂かれた「分裂した魂」の所有者だった。これに対し、馬場辰猪は「自由民権」の「理念」をひたすらラディカルに追求した。彼の生涯を知る者は「凛冽(りんれつ)の気」に打たれるが、覆いがたく現れてくるのは「政治」の不在である。このように2人を対比し、陸奥を高く評価しつつも、馬場への愛着も隠そうとしない。
萩原氏には「革新とは何か」にみられるような根源的な思考、史料を探索し内在的に理解しようとする態度、そして人物に注ぐ温かい視線がある。随所で印象深い文章に出合う。
「馬場の真面目は理想と信念に対する極めて真摯(しんし)な生活態度を保持していた点にある。しかし彼は『妥協』という休息を知らなかった」
岡義武『近代日本の政治家』の解説ではこう書く。「リベラル・ナショナリストとしての岡先生は2つの時代において『静かなレジスタンス』をつづけることを余儀なくされた。ひとつは戦前のナショナリズムの過剰に対して、ひとつは戦後のナショナリズムの過少に対して」
評者・橋本五郎(読売新聞社編集委員) / 読売新聞 2003.10.12
| 丸山眞男―リベラリストの肖像 | |
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一言:
「小説的」と呼ぶべき評伝。
思想書と小説、伝記という三者の境界に立つ困難な営み。
今回は、
1著者は丸山をどう見ているか
2君達は丸山をどう見るか
という二つの課題に答えたペーパーをどうぞ。
目次から前半部を読み進めるうちに、
本書は三点測量の本だという確信を抱いた。
「岩波」の名の重さもしくは著者の若さがそうさせたのかというような、
終章での若干興醒めな種明かしを待つまでもなく、
目次に挙げられた終章の題名と冒頭のカフカの引用が、
『封印は花やかに』という小説執筆後十年間の沈黙を経て、
常に睡魔と闘いながら、つまり不寝番をしながら四部作を生きる薫君という主人公を描き復活した作家の名を想起させずにはおかない。
また、第一章から執拗に語られ、
丸山が少年時代を送った愛住町の「微妙な山の手」という場所性に集約される、
彼の人生における理想と実際のずれは、
これまた理想と現実のずれに苦悩する後発近代国家日本と丸山とを重ね合わせる欲望を喚起するには十分である。
この、庄司薫と日本という二つの固有名詞を介した三点測量という手法の選択に苅部の立ち位置が刻印されている。
つまり、自らの経験によっては丸山を語れない世代に属する苅部は
(実際、彼自身の丸山との邂逅はあとがきに記された一度きりである)、
丸山との間に二つの固有名詞という飛び石を置いて丸山を語るしかない。
その証拠に見よ、
p59「(1933年の滝川事件後)これを最後に学生の政治運動は、東京でも一切消えてゆく」とある。
何をもって学生運動とするかの定義次第かもしれないが、
『聞き書き 南原繁回顧録』で丸山自身が語っているように、
その後も蓑田胸喜らを指導者とした右翼の学生団体「学生協会」などは盛んに活動し、津田左右吉もその講義で妨害を受けているし、
1937年の東大生の明治神宮参拝をボイコットした経済学部の自治的親睦組織「経友会」などの例もある。
瑣末なことかもしれないが、
丸山がもし存命で苅部のこのような記述を読めば苦笑を禁じえなかっただろう。
このように1965年生まれの苅部と丸山との距離は確かに開いているのだ。
などと書けば一丁上がりである・・・とは行かなかった。
確信とは得てして容易に覆る。
まず日本という固有名詞と丸山を重ね合わせようとする欲望は
p90「『近代』のあり方は、人類がみな、文化の差異をこえてめざすべき理想であり、その意味で、『欧州市民文化』が今のところ先んじているとはいえ、本来は西洋と日本の違いも、これまでどれだけ理想に近づいたのか、その度合いの差にすぎない」
という記述の前にもろくも崩れ去る。
もちろんこの後も、
日本の問題が先進国に普遍的なものかその上に特殊日本的なものがあるのかは丸山の意見も微妙にぶれていくところではあるが、
考えてみればわかるように「理想と現実のずれ」は普遍的な苦悩であり日本に特権的なものではない。
そのような類似だけで「日本」と「丸山眞男」を重ね合わせるのには到底無理がある。
と考えると途端に三点測量とか飛び石とかいうアイデアも怪しくなってくるわけである。
そもそも、庄司薫という人が基準点として役立つほど確固とした存在としてつかまえられるかという問題に気付かざるをえない。
ここで、もう一度素直に考えてみると、
この本は小説ではないか、という考えが浮かぶ。
体系建設型の思想家としてではなく、
問題発見型の思想家として丸山の思想の変化の軌跡を描くのも、
主人公の成長を伴うビルディングスロマンを描くためと考えれば合点がいくし、
庄司薫という固有名詞も、「私は小説を書きましたよ」というサインとして読める。
ならば苅部の立場性とは、
直接的関係を持たないがゆえに、ある種のフィクションとして丸山を描けた、
ということで丸くおさまりそうである。
「あるリベラリストの肖像」でなく「リベラリストの肖像」という題名である点も、
一種のモデルとして丸山を描いたという告白とさえ読める。
だが、99%はこれでよくても、まだ捉えきれていない繊細な領域があるだろう。
なぜならこれは小説ではないから。
p199に過去の思想を読む際の姿勢としてこう但し書きがある、
「現代の感覚を投影して曲解してしまうことを慎重に避けながら」。
こうある以上、なんらかの感情移入の上に成り立つメディアである小説というスタイルは選択されえない。
しかし他方で「他者の内側から理解する」態度も要請される。
この困難な要求を満たすために、
実質は小説でありながら、小説のような感情移入を拒むと評伝というスタイルが取られたのである。
「小説」ではなく「小説的」もしくは元の言葉に返って「小説チック」と呼んで初めて本書を正確に捉えたことになる。
このとき、「苅部は丸山をどう見ているか」という問いは無効となる。
苅部が描くその瞬間にこそ「丸山」新たにが生成されているのだ。
だが80年代生まれの私達には正直丸山眞男がどんな人だったかなんてさほど興味がない。
p104「価値の相対性に慣れきった現代の知識人」とは苅部ではなく私達のことである。
しかし、
様々な角度から丸山を覗き見てその姿を動態的に活写する筆の冴え、
確かに苅部さんはドガのような人だ、
そして筆者はドガが大好きである。
目次など
近代の理念と現代社会との葛藤をみすえつつ、理性とリベラル・デモクラシーへの信念を貫き通した丸山眞男。
戦前から戦後への時代の変転の中で、彼はどう生き、何を問題としたのか。
丸山につきまとうできあいの像を取り払い、のこされた言葉とじかに対話しながら、その思索と人間にせまる評伝風思想案内。
序章 思想の運命
第1章 「大正ッ子」のおいたち
第2章 「政治化」の時代に
第3章 戦中と戦後の間
第4章 「戦後民主主義」の構想
第5章 人間と政治、そして伝統
終章 封印は花やかに
| メロドラマからパフォーマンスへ―20世紀アメリカ演劇論 | |
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一言:
枠組みではない参照点としての「外」を持つことが、
批評にもたらす豊かさ
この本を読むには下準備がいると思う。
戦後アメリカ史、アメリカ文化史、日本の戦後史、日本の同時代の演劇史、演劇論、ポストモダンの言説群etc・・・
入り口は何でもいいが何かしらのとっかかりがないと読み破るのは難しい本、
少なくとも僕にはそう思えた。
そして一つの入り口から入った読者に対しても、
上に記したような多くの出口への道筋を示す本として本書はある。
もちろん、自明のものとして入り口に使った知識にも再考を迫る本としても。
○○批評と呼ばれ、
最終的には「外にある理論」を補強するために劇評を使う批評、
もしくは特異なタームに縛られて結局は○○批評と変わらない凡庸なさ生産に陥っていくポストモダン批評、
それらとは一線を画した位置に著者は立っている。
そのような姿勢を最もよく示すのが、
ピナ・バウシュについて論じる中で書かれた次の一節だ。
(長くなるが引用する)
あるいは、批評という名の言語行為が芸術の諸ジャンルに対してほとんど何の効力も持ちえないこの国で、
バウシュのような固有の歴史的文脈にどっぷりと浸かった芸術家が「理解」されないのはしかたないさと嘆いてみせてもよい。
そこから始めれば、
わが国の批評家たちの怠慢、
すなわち、あらゆる上演をただ一方的に美的に、
すなわち美的範疇に「自粛」して語ろうとする日本の批評家の旧弊を指摘することだってできる。
だが、あれほどまでに政治的な身体の上演を続けるバウシュの諸作品を見て、
批評家であれ女性の観客たちであれ、
そこに現にあるものを見ない・見えないなどということが、
本当にありうるのだろうか。
この問いに答えるために、わたしはかなりの迂回路を経由しなければならない。
バウシュのダンスそのものを語るという強大な誘惑に抗して、
バウシュについてのすでに繰り出された多量の言説の束と、
彼女をめぐる評価の歴史性や問題性に触れないわけにはいかないからだ。
それに今のわたしには、バウシュのダンスそのものを、
たとえば個別の作品に即して語るなどという贅沢が許されていないように思えている。
それを語ってしまうという愉悦を自らのものにする前に、
さまざまな前提や文脈や歴史や保留事項がわたしの前に廃墟のように立ちふさがっていて、
そこでは大小とりまぜた瓦礫の山がよじれながら積み重なっている感じなのだ。
そんなことはとりあえずほうっておいて、
というわけにはいかない。
(引用終)
さらにもう一節だけ引用すれば、
現実にわれわれの前にある多元的かつインターカルチュラルで変幻自在な芸術表象に対し、
そのような、主として二項対立とその弁証法、
すなわちイデオロギー的止揚による抽象的範疇化という(それ自体として紋切り型の)批評の手法はもはや何の効力もない、
あるいはむしろ、
そうした批評の言説は単に反動的に見えるということだ。
(引用終)
凡庸な劇評を大量生産している身にはかなり応える文章である。
さらに個人的にだが、
「たとえば個別の作品に即して語るなどという贅沢が許されていないように思えている。」という一節など、
">庄司薫の「ぼくの大好きな青髭」のラストの台詞とオーバーラップして、
不覚にも涙しそうになった(というと言いすぎだが・・・)
だが、このように「凡庸さ」を避けようとした時点で、
彼は近代的な作家とならねばならなくなる。
つまり彼自身が本書の中で語っているように「無限の差異化の運動を生きる」ことになるのである。
だがそのような立場を内野さん特有の皮肉な口ぶりで「近代主義の残滓」などと揶揄することはできない。
あとがきにこうある。
「何をおいても書くことが要求される」
ある意味で凡庸なこの台詞に込めた彼の決意を汲み取る時、
ある種の敬意を覚えこそすれ、
「近代主義の・・・」などといった言葉は間違っても浮かんでこないからである。
目次など
この本は20世紀アメリカ演劇の重要事件を文化史・政治史の広い文脈のなかで捉え直し、その栄光と悲惨を浮き彫りにする。
『セールスマンの死』、『ヘアー』、パフォーマンス・アート、『エンジェルズ・イン・アメリカ』…すべてがまったく違って見えてくるはずだ。
といって、演劇を歴史に還元してしまう本ではない。
愛、などとは間違っても口にする著者ではないが、この本の1ページ1ページが、演劇への静かな愛に貫かれている。
(柴田元幸による帯)
1 ユージン・オニールとメロドラマ(オニールのメロドラマティズム;オニールのシアトリカリスム―3つの「ページェント劇」における劇空間とセノグラフィ)
2 メロドラマからパフォーマンスへ(1)戦後アメリカ演劇の展開(『セールスマンの死』の「物語」―その「社会劇」的過程;ヴェトナム戦争とアメリカ演劇(デイヴィッド・レイブの戯曲、あるいは怒れるヴェトナム帰還兵の醒めた眼;演劇の「広がり」から「深さ」へ))
3 メロドラマからパフォーマンスへ(2)ポスト・ヴェトナム世代の演劇(リー・ブルーアの『メッカ参拝』をめぐって;サム・シェパードの時代―自己拡散/自己表示から指示表出へ ほか)
4 世界演劇の地平とアメリカ―ミュラー/ウィルソン/バウシュ(バウハウスとアメリカ/前衛の「夢」とパフォーマンス―ヴァーグナー、シュレンマーからウィルソンへ;テクスト/歴史の復讐―ハイナー・ミュラーとロバート・ウィルソン ほか)
5 メディア、身体、アクティヴィズム―パフォーマンス・アートとは何か?(パフォーマンス・アートとは何か?;フェミニスト・パフォーマンスの系譜学 ほか)
ブロードウェイを逃走し,身体のふるまいに舞台を移すアメリカの現代演劇.オニールからオフ・シアター,クイア演劇,パフォーマンス・アートまで,アメリカにおける<演劇性>のめくるめく変容を,学問と批評を切り結ぶ文体で論じる気鋭の著者,最新論文集.[アメリカ太平洋研究叢書]日本経済新聞書評でますます注目.
東京大学「80年代地下文化論」講義
宮沢 章夫

白夜書房 2006-07-18
売り上げランキング : 1514
おすすめ平均
“時代のヘゲモニー”は「文化」から「資本」へ移行完了
感想として
白夜書房が本書を出したっていうところに因縁を感じる
Amazonで詳しく見る by G-Tools
一言:
鳥瞰図でも地下鉄図(不可視のインフラ、システム図)でもなく、
おたくとは逆の極にいた一人の個人、
宮沢章夫の地理感覚で描かれたストーリーとしてのヒストリー
サブカル関係で固有名詞も満載にしては読みやすい本。
というのも、基本的に宮沢章夫という個人から発する範囲内での話だから。
これはある意味弱点で、
注が結構ふってあるとはいえ、
情報収集が不足気味だという感じはいなめない。
その意味で「学問的」とは言いがたい面がある。
しかし、一つ一つの固有名詞も宮沢章夫が感じていた「匂い」とともに提供されるので、
わりとすんなり入ってくるのだと思う。
「スカだった」と言われた80年代に「あったはずの可能性」を、
現代へと接続していこうという問題意識で書かれているため、
その平易さともあいまって、
もしかしたら、学生なんかの間で、
ある種の「マニフェスト」として呼ばれそうな気がしたりする。
「機動戦でなく陣地戦だよね」とか、流行しそう。
以下どんどん雑感になっていくが、
他の80年代論への目配りが少ないというところとも絡むけど、
本書が大塚英志の「おたく」の精神史 一九八〇年代論への建設的批判として書かれた功罪があると思う。
罪のほうが大きいと思うけど、
おたく擁護に立つ大塚に対して、
やっぱり党派的な立場に立たざるをえない感じになってしまっているのが一点。
自身で二分法は嫌いと言いつつ、自分が陥っているという罠。
学問は「人」の字に似ていると思っていて、
やっぱり下で支えている方がしっかりしてないと、
上に乗る方もぐらぐらしてしまう。
大塚がしっかりしてないとは言わないけど。
ただし、読みやすさという点で言えば、
ある程度の党派性があった方がストーリーとして面白いわけで、
さらにそういった立場性が本書をマニフェスト的なものとして読ませる面もある。
と考えてみると、
当然のことながら表象文化論分科の意図としては、
学問的なことをしてもらうというよりも、
80年代のある先端にいた宮沢章夫に語らせることで、
自分達の研究の素材として引用可能なテクストを生産させた、
ということになるのではと邪推したり。
学生のためということもあるだろうけどさ。
けど本当に、
80年代を生きていない人や80年代にまだ子供だった人が、
80年代論に入っていくためには、
格好のスタート地点だと思う。
さっきの「人」という字の話でいえば、
上に乗っかっている方でなく、
下で支えていく方の本だということです。
目次など
「かっこいい」とはなにか
ニューウェーブの時代とピテカントロプス・エレクトス
西武セゾン文化の栄光と凋落
YMOの「毒」、“クリエイティヴ”というイデオロギー
森ビルの文化戦略と、いとうせいこうの「戦術」
「アングラ」はなぜ死語になったか
いろいろな質問に答える
由利徹、モンティ・パイソン、ラジカル・ガジベリビンバ・システム
それを好きと言ったら、変に思われるんじゃないか
ゼビウスと大友克洋と岡崎京子、それと「居場所がない」こと
「おたく」の研究、岡崎京子の視線、ピテカンの意味
東京の繁華街の変遷
とりあえずのまとめ―80年代と現在との接続
宮沢 章夫

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“時代のヘゲモニー”は「文化」から「資本」へ移行完了
感想として
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一言:
鳥瞰図でも地下鉄図(不可視のインフラ、システム図)でもなく、
おたくとは逆の極にいた一人の個人、
宮沢章夫の地理感覚で描かれたストーリーとしてのヒストリー
サブカル関係で固有名詞も満載にしては読みやすい本。
というのも、基本的に宮沢章夫という個人から発する範囲内での話だから。
これはある意味弱点で、
注が結構ふってあるとはいえ、
情報収集が不足気味だという感じはいなめない。
その意味で「学問的」とは言いがたい面がある。
しかし、一つ一つの固有名詞も宮沢章夫が感じていた「匂い」とともに提供されるので、
わりとすんなり入ってくるのだと思う。
「スカだった」と言われた80年代に「あったはずの可能性」を、
現代へと接続していこうという問題意識で書かれているため、
その平易さともあいまって、
もしかしたら、学生なんかの間で、
ある種の「マニフェスト」として呼ばれそうな気がしたりする。
「機動戦でなく陣地戦だよね」とか、流行しそう。
以下どんどん雑感になっていくが、
他の80年代論への目配りが少ないというところとも絡むけど、
本書が大塚英志の「おたく」の精神史 一九八〇年代論への建設的批判として書かれた功罪があると思う。
罪のほうが大きいと思うけど、
おたく擁護に立つ大塚に対して、
やっぱり党派的な立場に立たざるをえない感じになってしまっているのが一点。
自身で二分法は嫌いと言いつつ、自分が陥っているという罠。
学問は「人」の字に似ていると思っていて、
やっぱり下で支えている方がしっかりしてないと、
上に乗る方もぐらぐらしてしまう。
大塚がしっかりしてないとは言わないけど。
ただし、読みやすさという点で言えば、
ある程度の党派性があった方がストーリーとして面白いわけで、
さらにそういった立場性が本書をマニフェスト的なものとして読ませる面もある。
と考えてみると、
当然のことながら表象文化論分科の意図としては、
学問的なことをしてもらうというよりも、
80年代のある先端にいた宮沢章夫に語らせることで、
自分達の研究の素材として引用可能なテクストを生産させた、
ということになるのではと邪推したり。
学生のためということもあるだろうけどさ。
けど本当に、
80年代を生きていない人や80年代にまだ子供だった人が、
80年代論に入っていくためには、
格好のスタート地点だと思う。
さっきの「人」という字の話でいえば、
上に乗っかっている方でなく、
下で支えていく方の本だということです。
目次など
「かっこいい」とはなにか
ニューウェーブの時代とピテカントロプス・エレクトス
西武セゾン文化の栄光と凋落
YMOの「毒」、“クリエイティヴ”というイデオロギー
森ビルの文化戦略と、いとうせいこうの「戦術」
「アングラ」はなぜ死語になったか
いろいろな質問に答える
由利徹、モンティ・パイソン、ラジカル・ガジベリビンバ・システム
それを好きと言ったら、変に思われるんじゃないか
ゼビウスと大友克洋と岡崎京子、それと「居場所がない」こと
「おたく」の研究、岡崎京子の視線、ピテカンの意味
東京の繁華街の変遷
とりあえずのまとめ―80年代と現在との接続
雪
オルハン・パムク

藤原書店 2006-03
売り上げランキング : 151482
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唯一の政治小説
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一言:
人間の全ての行為、とりわけ政治的行為は雪である。
今日は小説ということで趣向を変えて、
意味がはっきりとしない一言から始めて、
それを解きほぐしていくような長文を付すというスタイルで。
といっても2000字程度ですが。
その前に優等生的に軽く話すと、
翻訳は最悪でしたが、
「小説の登場人物を見分ける際、その語り口にかなりの部分頼っている」
という事実を思い起こさせてはくれました。
小説はいろいろ言及したいところのある、
かなり重厚なものでした。
現代のトルコが舞台です。
ってな感じ。
では、どうぞ。
人間の全ての行為、とりわけ政治的行為は雪である。
これが本書の主題だ。
雪は純粋な氷ではなくその中心に大気中の微粒子、
つまりは汚れを核として持つ。
本音と建前という陳腐な言葉を持ち出すまでもなく、
人間の行為は、それを正当化する偽の理由と真の理由とのどちらでも説明可能である。
この主題の絶えざる反復として本書はある。
時間軸を距離軸に投射する西欧的目線でもって、
自らの「過去」を「遅れた地域」に求め、
政治亡命先のフランクフルトから、
故郷トルコの中でも最貧の地カルスへとやってきた詩人Ka。
だが、彼はあくまで新聞の特派員
??頭を覆う布を脱がされることへの抵抗の末に自殺した少女達と市長選挙の取材に来た??
として振舞う。
しかし、
彼を真にカルスの地へ旅立たせたのは、
「結婚すべきトルコ人の娘」であるイペッキを手に入れたいという思いであった。
取材/過去/イペッキという本音と建前の重層構造。
だが、その最も建前的な取材という行為と、
西洋の新聞とパイプがあるという小さな嘘によって、
雪によって交通が遮断されたカルスでのクーデター劇の舞台に、
Kaは否応なく上がることになる。
もちろん、クーデターの緊迫の中でも、
Kaの頭の中を占めるのはイペッキを手に入れることができるかという即物的な悩みである。
一例を上げるならば、
Kaがコミュニストであるイペッキの父とイスラム主義者のカリスマである紺青との会見を行わせようとするのは、
父の不在の間にイペッキと肌を交わらせたいという欲望ゆえになのだ。
この「政治/個人的感情」という二重構造に加えて、
神や宗教という観念についても、
「詩や雪そして人間を生む彼方としての神/現世での貧困を意味づけ来世での幸福を保証する神」、
「個人が人生の意味について考える時直面せざるを得ないものとしての宗教/貧者にとっての居場所・共同体としての宗教」
という二重構造が物語に奥行きを与える。
だがこの読み取りで果たしてよいのだろうか?
著者であり語り手の「わたし」であるパムクの術中にはまってはいないだろうか。
核心に迫りかけているが、少しの迂回を挟もう。
本書において筆者が最もスリリングだと感じた箇所は、
テロリストとその犠牲者となる校長との緊迫しかつかみ合わない会話部と、
イペッキの父、イペッキの妹、紺青、そしてその他政治活動家達が行う討論の場面、
そしてカディフェとスナイのダイアローグである。
この三者に共通する条件とは、
Kaの不在と、
投げ出された生の会話であることだ。
だがこの二つの条件は実は密接に結びついているのだ。
Kaとイペッキの元夫ムスタフのやり取りを読むと同時に頭に浮かんだ漱石の小説『こころ』との対比がこの結びつきを明らかにするだろう。
筆者は初めKaとムスタフとの関係を『こころ』における先生とKの関係
??先生は下宿先の娘をめぐり畏敬するKとの三角関係となり、卑怯な手段によって娘と婚約するが、Kの自殺を自分のせいだと思い込む。そして鎌倉で知り合った学生である「私」に宛てた分厚い遺書にその顛末を書き記す??
に措定していたが、
読み進めるうちに、
先生とKとの関係に重ねられるべきなのは、
Kaと紺青との関係だと気付いた。
だが重なるのは畏敬しながらライバル視するというねじれた関係性だけではない、
先生のメンタリティー
??他人のおよび自分の行為を深読みする??
もそのままぴったりとKaに当てはまるのだ。
つまり、Kaは、
ムスタフ、紺青、そしてイペッキらの行動に過剰なまでの意味づけを行っていたのだ。
このKaの知識人であるがゆえの深読みはKa自身に対しても実行される。
何の気なしの行為でも、
後から反省する際に新たな本音が見出され、付与されるのである。
それはほとんど妄想といってもいいレベルである。
だが『こころ』のもう一人の登場人物、「私」に思いを馳せ、
彼を『雪』の中の「わたし」と比較する時、
事実はまた違った様相を呈する。
「私」は先生の手紙の受け取り手でしかない。
『こころ』の後半部は先生の手紙、生の言葉だけで占められる。
しかし、「わたし」はKaがカルスで作った詩とその詩が出来た状況について克明に記したノートを手にしただけでなく、
それを基に小説を書いた。
つまり、先生の深読みは彼の性格だが、
Kaの深読みは「わたし」が付与した性格なのだ。
「わたし」ことパムクは、
人間の行為が雪であること、その二重性を描くために、
Kaに過剰な意味づけをさせ、
存在しなかったはずの本音と建前を現出せしめたのである。
Kaにとっての最大の不幸は、
パムクが忠実な筆記者ではなく小説家であったことだろう。
かくして本書はパムクの雪、
はかない試みであったこと??もちろん各所に示されているようにパムクはこれに自覚的であった??が明らかとなった。
それでも、筆者はそこに何かしらの真実があると、
手を滴り落ちていくはかない雪の雫を見つめる者である。
オルハン・パムク

藤原書店 2006-03
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一言:
人間の全ての行為、とりわけ政治的行為は雪である。
今日は小説ということで趣向を変えて、
意味がはっきりとしない一言から始めて、
それを解きほぐしていくような長文を付すというスタイルで。
といっても2000字程度ですが。
その前に優等生的に軽く話すと、
翻訳は最悪でしたが、
「小説の登場人物を見分ける際、その語り口にかなりの部分頼っている」
という事実を思い起こさせてはくれました。
小説はいろいろ言及したいところのある、
かなり重厚なものでした。
現代のトルコが舞台です。
ってな感じ。
では、どうぞ。
人間の全ての行為、とりわけ政治的行為は雪である。
これが本書の主題だ。
雪は純粋な氷ではなくその中心に大気中の微粒子、
つまりは汚れを核として持つ。
本音と建前という陳腐な言葉を持ち出すまでもなく、
人間の行為は、それを正当化する偽の理由と真の理由とのどちらでも説明可能である。
この主題の絶えざる反復として本書はある。
時間軸を距離軸に投射する西欧的目線でもって、
自らの「過去」を「遅れた地域」に求め、
政治亡命先のフランクフルトから、
故郷トルコの中でも最貧の地カルスへとやってきた詩人Ka。
だが、彼はあくまで新聞の特派員
??頭を覆う布を脱がされることへの抵抗の末に自殺した少女達と市長選挙の取材に来た??
として振舞う。
しかし、
彼を真にカルスの地へ旅立たせたのは、
「結婚すべきトルコ人の娘」であるイペッキを手に入れたいという思いであった。
取材/過去/イペッキという本音と建前の重層構造。
だが、その最も建前的な取材という行為と、
西洋の新聞とパイプがあるという小さな嘘によって、
雪によって交通が遮断されたカルスでのクーデター劇の舞台に、
Kaは否応なく上がることになる。
もちろん、クーデターの緊迫の中でも、
Kaの頭の中を占めるのはイペッキを手に入れることができるかという即物的な悩みである。
一例を上げるならば、
Kaがコミュニストであるイペッキの父とイスラム主義者のカリスマである紺青との会見を行わせようとするのは、
父の不在の間にイペッキと肌を交わらせたいという欲望ゆえになのだ。
この「政治/個人的感情」という二重構造に加えて、
神や宗教という観念についても、
「詩や雪そして人間を生む彼方としての神/現世での貧困を意味づけ来世での幸福を保証する神」、
「個人が人生の意味について考える時直面せざるを得ないものとしての宗教/貧者にとっての居場所・共同体としての宗教」
という二重構造が物語に奥行きを与える。
だがこの読み取りで果たしてよいのだろうか?
著者であり語り手の「わたし」であるパムクの術中にはまってはいないだろうか。
核心に迫りかけているが、少しの迂回を挟もう。
本書において筆者が最もスリリングだと感じた箇所は、
テロリストとその犠牲者となる校長との緊迫しかつかみ合わない会話部と、
イペッキの父、イペッキの妹、紺青、そしてその他政治活動家達が行う討論の場面、
そしてカディフェとスナイのダイアローグである。
この三者に共通する条件とは、
Kaの不在と、
投げ出された生の会話であることだ。
だがこの二つの条件は実は密接に結びついているのだ。
Kaとイペッキの元夫ムスタフのやり取りを読むと同時に頭に浮かんだ漱石の小説『こころ』との対比がこの結びつきを明らかにするだろう。
筆者は初めKaとムスタフとの関係を『こころ』における先生とKの関係
??先生は下宿先の娘をめぐり畏敬するKとの三角関係となり、卑怯な手段によって娘と婚約するが、Kの自殺を自分のせいだと思い込む。そして鎌倉で知り合った学生である「私」に宛てた分厚い遺書にその顛末を書き記す??
に措定していたが、
読み進めるうちに、
先生とKとの関係に重ねられるべきなのは、
Kaと紺青との関係だと気付いた。
だが重なるのは畏敬しながらライバル視するというねじれた関係性だけではない、
先生のメンタリティー
??他人のおよび自分の行為を深読みする??
もそのままぴったりとKaに当てはまるのだ。
つまり、Kaは、
ムスタフ、紺青、そしてイペッキらの行動に過剰なまでの意味づけを行っていたのだ。
このKaの知識人であるがゆえの深読みはKa自身に対しても実行される。
何の気なしの行為でも、
後から反省する際に新たな本音が見出され、付与されるのである。
それはほとんど妄想といってもいいレベルである。
だが『こころ』のもう一人の登場人物、「私」に思いを馳せ、
彼を『雪』の中の「わたし」と比較する時、
事実はまた違った様相を呈する。
「私」は先生の手紙の受け取り手でしかない。
『こころ』の後半部は先生の手紙、生の言葉だけで占められる。
しかし、「わたし」はKaがカルスで作った詩とその詩が出来た状況について克明に記したノートを手にしただけでなく、
それを基に小説を書いた。
つまり、先生の深読みは彼の性格だが、
Kaの深読みは「わたし」が付与した性格なのだ。
「わたし」ことパムクは、
人間の行為が雪であること、その二重性を描くために、
Kaに過剰な意味づけをさせ、
存在しなかったはずの本音と建前を現出せしめたのである。
Kaにとっての最大の不幸は、
パムクが忠実な筆記者ではなく小説家であったことだろう。
かくして本書はパムクの雪、
はかない試みであったこと??もちろん各所に示されているようにパムクはこれに自覚的であった??が明らかとなった。
それでも、筆者はそこに何かしらの真実があると、
手を滴り落ちていくはかない雪の雫を見つめる者である。
ミモザでサラダ
森生 まさみ

白泉社 2004-09-04
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一言:
脱社会化した存在を柔和な脱社会者として引き止めるために
先日、東大演劇のメッカ駒場小空間で上演された「ミリーの場合 451°F」という芝居を観ての感想と、
結構リンクする部分があったので。
(詳しい感想はこちら↓
「ミリーの場合 451°F」 原作 レイ・ブラッドベリ『華氏451度』 脚本・演出 菅原令子@駒場小空間)
さてさて、
今回の「一言」の意味はこのマンガを読んでもらえれば贅言を要するまでもなく分かっていただけるはずだけど、
それでは身も蓋もないのでちょっと余計なおしゃべりをば。
脱社会化した存在とは本作品におけるカイル、
作中の言葉を引用すれば、
「警察学校史上最強マシーンといわれた男
カイル・マクシミリオンは
財産や己の欲望に執着しないという感情の著しい欠落から、
"警官不適格"とされた問題人間だった」
というような人物。
彼と少女の出会いが何をもたらすのか?
ただ事前に言っておくと、
単純に「感情の回復」「人間らしさの回復」の物語として読むのは誤りだと思う。
そのようにもも読めてしまう辺りがこの作品の難点なのだが、
読みやすさという利点でその辺には目を瞑りたい。
さて、ではどう読むのか。
カイルの変化が自らが仕える少女ミモザへの執着から始まることに着目すべきだ。
底が抜けた存在、
つまりそれ以上社会に留まるインテンシブを持たない存在であるカイルが、
それでもなお社会の中に留まるとしたら、
何かしら「かけがえのないもの」「失えないもの」を持った瞬間なのだ。
結論としてはあまりに凡庸だが、
「社会に留まること」をイコール「絶対に失えない価値」と考え疑いもしない私たち、
既に社会に留まることに意義を見出せない者に社会でしか通じない文脈で話しかけるか、
さもなくば排除・隔離という選択肢しか持ちえない私たちは、
再度そのことを認識すべきではないだろうか。
自らの身を挺して、
脱社会化しようとしている存在の「かけがえのないもの」になろうとすること、
ミモザが自然と実践した行動を人はどこまで行うことができるだろうか。
もちろん、今まさに暴力を振るおうとしている脱社会化した存在に対して、
このような方法の想定は絵空事に過ぎないだろう。
しかし、蓋然性(possibility)としては存在せずとも、
可能性としては「自らを相手のかけがえのないものとする」という方法は確固として存在する。
その可能性と現実との対比が照射する領域、
つまり原罪として抱えざるをえない我々の非倫理性の領域は決して小さくはない。
森生 まさみ

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(詳しい感想はこちら↓
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さてさて、
今回の「一言」の意味はこのマンガを読んでもらえれば贅言を要するまでもなく分かっていただけるはずだけど、
それでは身も蓋もないのでちょっと余計なおしゃべりをば。
脱社会化した存在とは本作品におけるカイル、
作中の言葉を引用すれば、
「警察学校史上最強マシーンといわれた男
カイル・マクシミリオンは
財産や己の欲望に執着しないという感情の著しい欠落から、
"警官不適格"とされた問題人間だった」
というような人物。
彼と少女の出会いが何をもたらすのか?
ただ事前に言っておくと、
単純に「感情の回復」「人間らしさの回復」の物語として読むのは誤りだと思う。
そのようにもも読めてしまう辺りがこの作品の難点なのだが、
読みやすさという利点でその辺には目を瞑りたい。
さて、ではどう読むのか。
カイルの変化が自らが仕える少女ミモザへの執着から始まることに着目すべきだ。
底が抜けた存在、
つまりそれ以上社会に留まるインテンシブを持たない存在であるカイルが、
それでもなお社会の中に留まるとしたら、
何かしら「かけがえのないもの」「失えないもの」を持った瞬間なのだ。
結論としてはあまりに凡庸だが、
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しかし、蓋然性(possibility)としては存在せずとも、
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