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一言:
枠組みではない参照点としての「外」を持つことが、
批評にもたらす豊かさ
この本を読むには下準備がいると思う。
戦後アメリカ史、アメリカ文化史、日本の戦後史、日本の同時代の演劇史、演劇論、ポストモダンの言説群etc・・・
入り口は何でもいいが何かしらのとっかかりがないと読み破るのは難しい本、
少なくとも僕にはそう思えた。
そして一つの入り口から入った読者に対しても、
上に記したような多くの出口への道筋を示す本として本書はある。
もちろん、自明のものとして入り口に使った知識にも再考を迫る本としても。
○○批評と呼ばれ、
最終的には「外にある理論」を補強するために劇評を使う批評、
もしくは特異なタームに縛られて結局は○○批評と変わらない凡庸なさ生産に陥っていくポストモダン批評、
それらとは一線を画した位置に著者は立っている。
そのような姿勢を最もよく示すのが、
ピナ・バウシュについて論じる中で書かれた次の一節だ。
(長くなるが引用する)
あるいは、批評という名の言語行為が芸術の諸ジャンルに対してほとんど何の効力も持ちえないこの国で、
バウシュのような固有の歴史的文脈にどっぷりと浸かった芸術家が「理解」されないのはしかたないさと嘆いてみせてもよい。
そこから始めれば、
わが国の批評家たちの怠慢、
すなわち、あらゆる上演をただ一方的に美的に、
すなわち美的範疇に「自粛」して語ろうとする日本の批評家の旧弊を指摘することだってできる。
だが、あれほどまでに政治的な身体の上演を続けるバウシュの諸作品を見て、
批評家であれ女性の観客たちであれ、
そこに現にあるものを見ない・見えないなどということが、
本当にありうるのだろうか。
この問いに答えるために、わたしはかなりの迂回路を経由しなければならない。
バウシュのダンスそのものを語るという強大な誘惑に抗して、
バウシュについてのすでに繰り出された多量の言説の束と、
彼女をめぐる評価の歴史性や問題性に触れないわけにはいかないからだ。
それに今のわたしには、バウシュのダンスそのものを、
たとえば個別の作品に即して語るなどという贅沢が許されていないように思えている。
それを語ってしまうという愉悦を自らのものにする前に、
さまざまな前提や文脈や歴史や保留事項がわたしの前に廃墟のように立ちふさがっていて、
そこでは大小とりまぜた瓦礫の山がよじれながら積み重なっている感じなのだ。
そんなことはとりあえずほうっておいて、
というわけにはいかない。
(引用終)
さらにもう一節だけ引用すれば、
現実にわれわれの前にある多元的かつインターカルチュラルで変幻自在な芸術表象に対し、
そのような、主として二項対立とその弁証法、
すなわちイデオロギー的止揚による抽象的範疇化という(それ自体として紋切り型の)批評の手法はもはや何の効力もない、
あるいはむしろ、
そうした批評の言説は単に反動的に見えるということだ。
(引用終)
凡庸な劇評を大量生産している身にはかなり応える文章である。
さらに個人的にだが、
「たとえば個別の作品に即して語るなどという贅沢が許されていないように思えている。」という一節など、
">庄司薫の「ぼくの大好きな青髭」のラストの台詞とオーバーラップして、
不覚にも涙しそうになった(というと言いすぎだが・・・)
だが、このように「凡庸さ」を避けようとした時点で、
彼は近代的な作家とならねばならなくなる。
つまり彼自身が本書の中で語っているように「無限の差異化の運動を生きる」ことになるのである。
だがそのような立場を内野さん特有の皮肉な口ぶりで「近代主義の残滓」などと揶揄することはできない。
あとがきにこうある。
「何をおいても書くことが要求される」
ある意味で凡庸なこの台詞に込めた彼の決意を汲み取る時、
ある種の敬意を覚えこそすれ、
「近代主義の・・・」などといった言葉は間違っても浮かんでこないからである。
目次など
この本は20世紀アメリカ演劇の重要事件を文化史・政治史の広い文脈のなかで捉え直し、その栄光と悲惨を浮き彫りにする。
『セールスマンの死』、『ヘアー』、パフォーマンス・アート、『エンジェルズ・イン・アメリカ』…すべてがまったく違って見えてくるはずだ。
といって、演劇を歴史に還元してしまう本ではない。
愛、などとは間違っても口にする著者ではないが、この本の1ページ1ページが、演劇への静かな愛に貫かれている。
(柴田元幸による帯)
1 ユージン・オニールとメロドラマ(オニールのメロドラマティズム;オニールのシアトリカリスム―3つの「ページェント劇」における劇空間とセノグラフィ)
2 メロドラマからパフォーマンスへ(1)戦後アメリカ演劇の展開(『セールスマンの死』の「物語」―その「社会劇」的過程;ヴェトナム戦争とアメリカ演劇(デイヴィッド・レイブの戯曲、あるいは怒れるヴェトナム帰還兵の醒めた眼;演劇の「広がり」から「深さ」へ))
3 メロドラマからパフォーマンスへ(2)ポスト・ヴェトナム世代の演劇(リー・ブルーアの『メッカ参拝』をめぐって;サム・シェパードの時代―自己拡散/自己表示から指示表出へ ほか)
4 世界演劇の地平とアメリカ―ミュラー/ウィルソン/バウシュ(バウハウスとアメリカ/前衛の「夢」とパフォーマンス―ヴァーグナー、シュレンマーからウィルソンへ;テクスト/歴史の復讐―ハイナー・ミュラーとロバート・ウィルソン ほか)
5 メディア、身体、アクティヴィズム―パフォーマンス・アートとは何か?(パフォーマンス・アートとは何か?;フェミニスト・パフォーマンスの系譜学 ほか)
ブロードウェイを逃走し,身体のふるまいに舞台を移すアメリカの現代演劇.オニールからオフ・シアター,クイア演劇,パフォーマンス・アートまで,アメリカにおける<演劇性>のめくるめく変容を,学問と批評を切り結ぶ文体で論じる気鋭の著者,最新論文集.[アメリカ太平洋研究叢書]日本経済新聞書評でますます注目.
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